2008年11月02日

【阿部次郎略年譜】70代の阿部次郎

1954(昭和29)年


(満71歳)

6月財団法人阿部日本文化研究所の設立が認可され、理事長兼所長となり、
落成式と開所式を行う。


1959(昭和34)年


(満76歳)

6月仙台名誉市民に推される。
10月20日死去。同月26日仙台市公会堂で市民葬が営まれる。
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【阿部次郎略年譜】60代の阿部次郎

1945(昭和20)年


(満62歳)

3月東北帝国大学を定年退官。


1946(昭和21)年


(満63歳)

東北帝国大学名誉教授の称号をうける。


1947(昭和22)年


(満64歳)

4月『阿部次郎選集』(羽田書店、全6巻)の出版が開始され翌年6月完結。
6月帝国学士院会員に推される。


1948(昭和23)年


(満65歳)

2月3人の弟(阿部余四男、竹岡勝也、阿部六郎)との合著『根芹』(金文堂出版部)を出版。
5月『合本 三太郎の日記』(改版、岩波書店)を出版。


1949(昭和24)年


(満66歳)

2月自宅で門下生らと日本文化研究会を開く。
後に 山田孝雄、竹岡勝也も加わる。


1950(昭和25)年


(満67歳)

3月『合本 三太郎の日記』(角川書店)を出版。
11月『三太郎の日記 補遺』(同前)を出版。
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【阿部次郎略年譜】50代の阿部次郎

1934(昭和9)年


(満51歳)

4月『世界文化と日本文化』(岩波書店)を出版。


1941(昭和16)年


(満58歳)

7月東北帝国大学法文学部長に就任。
12月上級中に軽度の脳溢血の発作に襲われる。


1942(昭和17)年


(満59歳)

3月法文学部長を辞職。4月病気快癒し、講義を始める。
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【阿部次郎略年譜】40代の阿部次郎

1923(大正12)年


(満40歳)

10月帰国し、東北帝国大学に新設の法文学部美学講座の初代教授に就任。


1925(大正15/昭和元)年


(満42歳)

東北帝国大学評議員となる(昭和7年1月まで)。
芭蕉会を起こし、 山田孝雄、小宮豊隆、 土居光知、岡崎義恵らと
芭蕉連句の輪読を始める。


1931(昭和6)年


(満48歳)

6月『徳川時代の芸術と社会』(改造社)を出版。
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【阿部次郎略年譜】30代の阿部次郎

1913(大正2)年


(満30歳)

慶応義塾(大学部)講師となる。


1914(大正3)年


(満31歳)

2月分家し竹沢つねとの結婚を届け出る。
4月『三太郎の日記』(東雲堂)を出版。


1915(大正4)年


(満32歳)

2月『三太郎の日記 第弐』(岩波書店)を出版。


1916(大正5)年


(満33歳)

日本女子大学講師となる。
7月『倫理学の根本問題』(岩波書店)を出版。


1917(大正6)年


(満34歳)

4月『美学』(岩波書店)を出版。
5月創刊の雑誌『思潮』(岩波書店発行、翌年12月休刊)の主幹となる。


1918(大正7)年


(満35歳)

6月『合本 三太郎の日記』(岩波書店)を出版。


1920(大正9)年


(満37歳)

太田水穂の発起により芭蕉研究会が始まり、
幸田露伴、小宮豊隆、 安倍能成らと出席。


1921(大正10)年


(満38歳)

1月『中央公論』に「人生批評の原理としての人格主義的見地」を発表、
人格主義の主張を展開。


1922(大正11)年


(満39歳)

5月文部省在外研究員として美学研究のためにヨーロッパに渡り、
主にフランス、ドイツ、イタリア、イギリスで学ぶ。
6月『人格主義』(岩波書店)を出版。
10月『地獄の征服』(同前)を出版。
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【阿部次郎略年譜】20代の阿部次郎

1903(明治36)年

(満20歳)

この年第一高等学校の機関誌『校友会雑誌』の編集にあたり、しばしば同誌に執筆。
斎藤茂吉、安倍能成、 魚住影雄(折蘆)らを知る。
5月下級生 藤村操が華厳滝に投身自殺し、6月清沢満之が死亡、
青年の間に青春の煩悶の状況が一気に高まる。


1904(明治37)年

(満21歳)

7月第一高等学校を卒業し、9月東京帝国大学文科大学哲学科に入学。
ケーベル、大塚保治らの講義を喜んで聴く。


1905(明治38)年

(満22歳)

友人の勧めで、豊竹昇太夫の義太夫を熱心に聞く。


1906(明治39)年

(満23歳)

小山内薫らと東京帝国大学文科の機関誌『帝国文学』の編集委員をつとめ、しばしば同誌に執筆。
この頃より歌舞伎に熱中し、 初世中村吉右衛門をひいきにする。


1907(明治40)年

(満24歳)

卒業論文「スピノザの本体論」を書き、東京帝国大学を卒業。


1909(明治42)年

(満26歳)

夏目漱石の門に出入りし漱石門下生と交わり、『東京朝日新聞』の「朝日文芸欄」に執筆。


1910(明治43)年

(満27歳)

6月「朝日文芸欄」に「『それから』を読む」を発表。 武者小路実篤と会う。


1911(明治44)年

(満28歳)

3月小宮豊隆、 安倍能成、 森田草平との合著『影と声』(春陽堂)を出版。
この頃より初世中村吉右衛門 と交わる。
「朝日文芸欄」が廃止され、『読売新聞』の客員となり翌年より同紙にしばしば執筆。


1912(明治45/大正元)年

(満29歳)

5月『スバル』に「三太郎の日記」の序ともいえる「断片」を、
同月『読売新聞』に「三太郎の日記」(同題の最初のもの)を発表。
6月に結婚した和辻哲郎夫妻としきりに往来。
posted by 青田三太郎 at 14:30| 宮城 ☀| 阿部次郎略年譜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【阿部次郎略年譜】誕生〜10代の阿部次郎

1883(明治16)年


山形県上郷村(現在の松山町)に父・阿部富太郎と母・ゆきの次男として生まれる。


1896(明治29)年

(満13歳)

鶴岡の荘内中学校に入学。級友宮本和吉らと文学の交わりを結び、
哲学への志望を固める。


1898(明治31)年

(満15歳)

父の転任にともない山形中学校に転校。級友藤原正と親交を結ぶ。
内村鑑三や島崎藤村の著作に親しむ。


1990(明治33)年

(満17歳)

校長排斥を企て山形中学校から退学処分をうける。


1901(明治34)年

(満18歳)

1月東京の京北中学校に入学し、6月卒業。9月第一高等学校に入学。
校長は狩野亨吉。同級に岩波茂雄、 荻原藤吉(井泉水)らがいた。
トルストイや清沢満之の著作を読む。
posted by 青田三太郎 at 13:00| 宮城 ☀| 阿部次郎略年譜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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