2009年06月05日

阿部日本文化研究所開所55周年

本日2009年6月5日、「財団法人阿部日本文化研究所」は
開所55周年を迎えました。

この研究所創設にあたっては、
戦後改めて角川書店から出版された(※)
『合本 三太郎の日記』の印税が用いられていたということです。

※当初『合本 三太郎の日記』は岩波書店から出版されていましたが、
戦後になって次郎は版権を角川書店に移しました。



数ある阿部次郎の作品の中でも
最も広く親しまれた『三太郎の日記』は
次郎20代の終わりから30代の中頃にかけて著されました。

次郎自身の日記からの引用も多く、
『三太郎の日記』は次郎の青春時代の結晶とも言えるでしょう。
この「青春時代の結晶」が、次郎をして一躍ベストセラー評論家となさしめた
文字通りの出世作となりました。


そして時は流れ
老いた次郎は病躯を押して
「阿部日本文化研究所」の創設に総てを賭けます。
結果としてそれは、次郎のなした最後の仕事となりました。

自らを世に出した作品を礎とし
後進に道を譲り、静かに場を退いてゆく―

次郎最後の日記が記されたのはその半年前のことでした。


阿部次郎三女・大平千枝子氏の筆から
開所式の模様を垣間見ることができます。

「昭和二十九年六月五日―
 私はこの日、生まれて初めて父の涙を見た。
その時、父は熊谷岱蔵先生と小宮豊隆先生の二人に挟まれて坐り、
この切っても切れない間柄の老友から、阿部日本文化研究所の創設と、
父自身の古稀を祝う、心からの賀辞と激励を受けたところであった」



阿部次郎の没後、阿部日本文化研究所は東北大学に寄贈され
1999(平成11)年10月からは阿部次郎記念館として新たに生まれ変わりました。

当記念館は本年、
 阿部日本文化研究所開所55周年
 阿部次郎記念館開館10周年
 阿部次郎没後50周年
という大きな節目を迎えております。


「この日、父は涙の堰が切れたように、実によく泣き、よく笑った。
日ごろあれほど毛嫌いしていた写真も、この日は幾枚でも
写すに任せた。
父にとってこの日―昭和二十九年六月五日は、たしかに一つの
大きな転機だったに違いない。
年を取ると子供に帰るというが、長い年月を貫いて父を特色付けて来た
理性の厳しい緊張がとけ、父はこの日、
自然に化する第一歩を踏み出したのではなかろうか」


この10年、
様々な方のご理解ご協力の賜物で
記念館運営を進めて参ることができましたこと
改めて心より御礼申し上げます。

創成期の10年を過ぎまして
阿部次郎記念館も新たな第一歩を踏み出そうとしています。


(引用:大平千枝子、1999、『父 阿部次郎』東北大学出版会)
posted by 青田三太郎 at 00:00| 宮城 ☁| 「阿部日本文化研究所」と「阿部次郎記念館」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月19日

山田孝雄・山田みづえ親子句碑・添碑説明文

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山田孝雄博士(明治八年〜昭和三十三年)は、富山市に生まれ、
独学で国語学を修め、大正十四年東北帝国大学法文学部に着任、
昭和二年教授となった。山田文法を確立、国文学・国史学・書誌学・
連歌研究など幅広い分野で独創的な研究成果を上げ、文化勲章を受章した。
『日本文法學概論』ほか多数の著作がある。阿部次郎・小宮豊隆・
太田正雄(木下杢太郎)らと深く交遊し、『芭蕉俳諧研究』
『連歌青葉集』などを刊行。退官後離仙していたが昭和二十四年
阿部の招きで再び来仙、本記念館の前身、阿部日本文化研究所の顧問となる。
阿部の好意でこの敷地内に居起し、昭和三十三年十一月永眠した。

山田みづえ(大正十五年〜)は孝雄の次女。仙台市に生まれ、
昭和三十二年から石田波郷に指事、角川俳句賞、俳人協会賞などを受賞、
昭和五十四年俳誌「木語」を創刊・主宰する。句集に『木語』『昧爽』
ほかがある。

孝雄の「連ね歌の花咲きにけり道の奥」は、昭和九年四月の連歌の発句
(『連歌青葉集』所収)、みづえの「風花す父のやさしさ極まれば」は、
昭和三十二年十一月、文化勲章受章直後の父から贈られた小包に謝し
献じた句である(『忘』所収)。

山田孝雄と阿部次郎の長年の友情と相互の学問的尊敬を讃え、
みづえの第一句集『忘』の中心をなす父娘の情愛・父との永別を
詠んだ一連の秀句群がここで生まれたことを記念し、句碑を建立する。

  平成十三年十月  山田孝雄・みづえの句碑を建立する会
                    代表 大平千枝子


            発起人
                佐々木美知子・大平千枝子
                木語俳句会・仙台木語の会
                東北大学文学部同窓会
posted by 青田三太郎 at 00:00| 宮城 ☁| 「阿部日本文化研究所」と「阿部次郎記念館」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月18日

山田孝雄・山田みづえ親子句碑

2001(平成13)年10月、阿部次郎記念館開館三周年と
翌年の東北大学文学部創立89周年を記念して
国語学者山田孝雄・俳人山田みづえ親子句碑が
旧居跡である阿部次郎記念館の敷地内に建立されました。


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句碑の左側には山田孝雄の発句

 「連ね歌の花咲きにけり道の奥」

右側には山田みづえさんの

 「風花す父のやさしさ極まれば」

が彫られています。

山田孝雄(1875-1958)は富山県出身で、
尋常中学中退後独学で国語学を学びました。
検定試験によって教員免許を取得後、
創立間もない東北帝国大学法文学部に招かれ
国語学の教授となりました。

山田孝雄は日本語の文法を体系化した「山田文法」を確立したほか
連歌研究や書誌学でも業績を残し、
昭和32(1957)年には文化勲章を受章しました。

なお、山田孝雄文化勲章受章の記念写真も
当館で展示しております。


現在句碑が建立されている阿部次郎記念館の駐車場には以前、
阿部次郎が那須に持っていた別荘を移築した建物がありました。
昭和20年代中頃より、山田孝雄とその家族は
阿部の好意によってこの別荘に住んでいました。

阿部次郎記念館にお越しの際には、是非この句碑もご覧下さいませ。
posted by 青田三太郎 at 16:55| 宮城 ☁| 「阿部日本文化研究所」と「阿部次郎記念館」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月02日

「阿部次郎記念館」と「阿部日本文化研究所」

1954(昭和29)年6月、阿部次郎は財団法人阿部日本文化研究所を設立し、
理事長兼所長となりました。
研究所の建物は仙台市米ヶ袋の閑静な住宅地の中に建てられ
盛大な開所式が執り行われました。


…しかし。
この時既に阿部次郎は病を得ており、理事長・所長でありながらも
阿部次郎自身はこの研究所において研究を行う事はなく
5年後の1959(昭和34)年10月に世を去りました。

阿部日本文化研究所の開所式が
阿部次郎が公の場に姿を見せた最後の時となってしまったのです。


阿部次郎の没後、1963(昭和38)年に同研究所の施設と
5千余冊の蔵書の一切が東北大学文学部に寄贈され、
それを基礎として東北大学文学部付属日本文化研究施設が発足しました。
日本文化研究施設発足後、旧阿部日本文化研究所の建物は
日本文化研究施設米ヶ袋分館として利用されることになりました。


更に時代は下って1996(平成8)年。
日本文化研究施設は東北アジア研究センターに改編されました。
それにともない、東北大学文学部では旧日本文化研究施設米ヶ袋分館の整備に着手し
1999(平成11)年10月には阿部次郎の業績を長く顕彰することを趣旨として
阿部次郎記念館の開館に至りました。


阿部次郎記念館開館の年は、阿部次郎没後40周年にあたります。
40年の歳月を経て、阿部次郎の遺志は新たな形で蘇りました。


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画像は第2展示室です。

この部屋は「阿部日本文化研究所」時代は書庫として用いられていました。
そのため、床がコンクリート敷きとなっております。
隣接する第1展示室は「阿部日本文化研究所」の研究室として用いられ、床は板張りとなっております。
記念館にお越しの際は是非、「研究室」と「書庫」の違いをご自身のおみ足で
体験して頂きたいと思います。


「阿部日本文化研究所」の蔵書は現在では東北大学付属図書館にて
「阿部次郎文庫」として収蔵されております。
阿部次郎記念館で展示しております書籍は、その蔵書の一部でございます。
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